コラム記事・研究会レポート

望ましい食生活とは

2019/04/05
コラム

◎文 愛場 庸雅(大阪市立総合医療センター耳鼻咽喉科部長、日本ホリスティック医学協会理事)

はじめに
幕内秀夫氏が『粗食のすすめ』(新潮文庫)を世に出してから20年近く経ちました。和食や地中海式食事がユネスコの無形文化遺産に認定され、伝統食が見直され、「望ましい食生活」の考え方は少しずつ変わって来ています。
しかし一方で、日本人の食の崩壊には目に余るものもあります。「もっと○○を摂ろう」「△△は□□に効く」「××式食事法」といったたぐいの話があまりにも多すぎて、何が本当なのか、何が正しいのか、もう誰にもわからない状態です。医食同源、食養生といった言葉があるように、ホリスティックな健康を語る時、食生活をいかにするかは避けて通れない問題です。
もう一度ホリスティックな視野から「食」を考えてみたいと思います。

栄養素という分析的思考

健康に良い、あるいは病気を治すために良い食事を考える時に、通常「どのような栄養素をどれだけ摂るのが良いか」という考え方をすることが多いと思います。しかし、「栄養素」という概念は分析的思考であり、部分の総和よりも大きい全体を見るというホリスティックな考え方ではありません。
もちろん、栄養素や栄養管理の知識の進歩は大きな恩恵をもたらしました。消化器の障害や、大きな手術の後とか外傷などで食事が摂れない時、体が重大な危機に直面している緊急事態の全身管理には、電解質バランス管理や高カロリー輸液は非常に優れた方法であり、これで助かった命も計りしれません。西洋医学にとっては欠かせないツールです。
しかし、この知識はまだまだ発展途上であり、知らないことがいっぱいあると考えた方がよいでしょう。

例えば、高カロリー輸液導入の初期には微量元素の知識がなかったため、それによる弊害も多くあったようです。分析的な考え方で「望ましい食生活」を確立しようと思えば、ちょっと考えただけでも、次のような多くの課題を解決しなくてはなりません。
「個々の栄養素の最適摂取量はどの程度が良いのか?」「栄養素のバランス、栄養素の組み合わせによる相互作用(協同する作用と拮抗する作用)をどう調節するのか?」「食材の調理法や摂り方によって変わる食べる事の出来る量や、栄養素の成分の変化、消化吸収の効率の変化をどう評価するのか?」「そしてその栄養素は実際に体にどのような影響を及ぼすのか?」、さらには、消化・吸収・代謝機能には、体質による個人差があること、体調・心理状態による変化があること、腸内細菌の状態などにも影響されること、そして人間の体には極めて柔軟な適応能力があり、わずかなことでは目に見えるような変化がすぐに出るものではないこと、なども考慮しなくてはなりません。
単純にあれがいい、これがいいというわけにはいかず、分析的思考を推し進めても限界があることがおわかりいただけると思います。

食生活を中心に次元を見てゆくと、社会>個人の生活全般>食生活>食事法>食品>栄養素となります。
現在の栄養学では、個々の成分に関する情報は集められていますが、単なるその和ではなく、統合された積分である食品になると次元が上がり、とても複雑になります。
さらに、調理・食事法、食生活、と次々積分して包括的にとらえてゆく、一本の木はなく、森の生態系を見るような視野が必要となります。
そういう見方をした時、一般に市販されているサプリメント、健康食品に頼りすぎることには疑問を感じざるを得ません。
多くのものは、「栄養素の不足を補うために摂ったほうがいい」という考え方と思われますが、そのもの自体の消化、吸収、代謝はどうなっているのか? 他の栄養素とのバランスの崩壊の危険性や過剰摂取の害はないのか? いったいいつまで続けたらいいのか? これらの疑問に明快に答えることはかなり難しいでしょう。
健康食品のCMを目にしない日はありませんが、情報過多から混乱をきたし、本当に必要なもの、大切なものが見えなくなっていないでしょうか。
実際の臨床では、私もサプリメントの利用を勧めることはありますし、それで病状が改善することもあります。
しかしこれらは、他のあらゆる薬と同じで、あくまで自分の体が持つ自然治癒力が本来の健康を回復してくれるまでの一時しのぎと考えないといけないと思っています。

食事療法の混乱、矛盾、光と影

「望ましい食生活」の課題として、「何を食べるのか」だけではなく、「いかに食べるのか」という点も重要な問題になります。
例えば、食事の時間、量、食べ方、環境、などです。しかしこれにもまた色々な方法・考え方があります。一般的には、「1日3食、間食を避け、過食を避け、夜遅く食べない。ゆったり良く噛んで」などと言われていますが、「1日3食よりも2食がいい」とか「朝食は摂るべきである。いや、摂らない方よい」とか「断食は有効だ。いや、危険なので半断食がいい」とか、実にさまざまです。

「食事療法」といわれるものの中には、その内容に矛盾するものもあります。例えば、がんの食事療法として有名なゲルソン療法とマクロビオティックという食事法があります。どちらも菜食主義で、なるべく自然なものを、という点では一致していますが、ゲルソンで勧められる生野菜のジュースは、マクロビオティックでは陰性なので良くないといわれたりします。そして、内容は矛盾しているのに、どちらも効果を挙げているのです。

アンドリュー・ワイル博士が『人はなぜ治るのか』の中で述べているように、「効かない治療法はなく、絶対に効く治療法もない。共通するのはその治療法に対する信頼感である」と考えれば、矛盾する食事指導のどちらも効果があるという事実を説明できるかと思います。
一般に食事療法は、厳しい制限を伴うことが多いようです。極めて日常的な「食生活」を変えることは、大変な努力を必要とします。極端なものになるとよほどの信念がないとできません。厳しければ厳しいほど、完遂が難しくなりますが、逆にそれを乗り越えようという心の力は強くなります。
この信念の力や経験者の体験談、世間の評価は、いわゆるプラシーボ効果を活性化することになり、うまくいけばこの食事療法で奇跡的治癒を起こしたということにつながります。
ところが一方で、これには危険な面もあります。1つは、健康食品、食事療法に頼り過ぎると、何らかの事情でそれを行うことができなくなった時、頼りにしていたものがなくなり、途方にくれる。あるいは、しばらく頑張っていたけれど、厳しい制限などに耐えきれず、途中で挫折してしまい、そのせいで罪悪感や自己嫌悪感に苛まれる、自分を否定してしまうという危険があります。
もう1つは、その食事療法がうまくいって健康を回復したがために、それに陶酔してしまい、それ以外のものが何も見えなくなってしまう「食事療法信仰」に陥ることです。こうなると、他のものの価値をすべて否定してしまうようなことも起こります。
自分の食生活だけでなく、他人にもそれを強制するようになり、結果的に人間関係、社会生活がうまくいかなくなることもあります。食事療法が成功しても、これでは健康的な生活とはとても言えません。

食事がおいしいか?

学会の調査では、日本の味覚障害の患者数は、2004年には年間約24万人と報告されており、増え続けています。その原因は、亜鉛をはじめとする栄養素の不足、合併症と薬剤、心理的要因、社会的要因、などが複雑にからみあって、悪循環を形成しているためです。そして、「おいしくない」と訴える人が増えています。
食事の「おいしさ」に関わる要因は単に味付けだけではなく、におい、色つや、温度、舌触り、音など、味覚以外の感覚も大きく関与します。しかし、それより大きな要因は、空腹、脱水などで代表される全身の栄養状態です。喉が渇いたときの水、お腹がすいた時の食事は実においしいものです。
さらに、「おいしさ」には、体の状態だけではなく、経験、嗜好、情報、信念や、環境、雰囲気、といった心理的要素が大きな影響をもっているのです。「おいしいかどうか」は、実は料理の味よりも、「お腹がすいているか」「好きなものか」「誰と食べるか」で決まるのです。食事の意義は、栄養の補給と生命の維持のみではありません。人間にとっては、楽しみ、満足感の源であり、コミュニケーションの場でもあります。
「おいしくないんです」という患者さんを診ていると、老人で、淋しい一人暮らしで、病気を抱えていて、薬をたくさん飲んでいて、食欲がなく、栄養状態が悪く、うつと欲求不満に苛まれているという、孤独な老人像、現代社会の抱える問題が見えてきます。
本来健康に良いもの、体に必要なものは、本能的においしいはずです。もし、体の声を静かに聞くことができれば、おのずから「望ましい食生活」になるはずなのですが、現実にそうはいきません。むしろ体に悪いもののほうがおいしく感じることが多いようです。それはなぜなのでしょうか?

人間の食生活は他の動物とは違って、本能だけではなく、経験、嗜好、情報、知識、信念、社会性、満足感などに大きく影響されます。「心が満たされているか?」は重要な要素で、甘いもの嗜好、アルコール依存、拒食・過食などはその典型です。心の状態は、自律神経機能を介して消化吸収機能すなわち栄養摂取にも大きな影響を及ぼします。
楽しんで食べる「粗悪な食事」と、仕方なく食べる「良質な食事」は、どちらが健康に良いのでしょうか?
食事療法に見られる色々な制限は、本人にとっては決して快適ではありません。「まずい。でも体のために仕方ない」と思いながら食べる食事、「こうあらねばならない」食事では、幸福感はなく、健康的とは言えません。粗悪な食事が心を癒し、良質な食事がかえって心の重荷になることもあるのです。

望ましい食生活の難しさ

「望ましい食生活」は、何を食べればいいかというような単純な問題ではないことがお分かりいただけたかと思います。
望ましい食生活を定義することは極めて難しく、さらにそれを実行すること、ましてや指導することはとても難しいことです。食事の指導をする時の「バランスの良い食事をしましょう」は、具体性のない逃げ口上ですが、現実にはそれ以外に言いようがない面があります。
知識がなければ、指導がなければ、食事は変わりませんが、信念に基づく食事指導は、先にも述べたように、排他的な価値観の押しつけになる危険性をはらんでいます。そして、指導しても結局、実行、完遂ができないことも普通にあります。
食事は、日常的なことであるがゆえに、持続可能なものでなければなりません。個人の信条、嗜好を満たし、心理的、社会的、経済的に毎日続けられることが必要です。そのための伝統食への回帰、地産地消という考え方は推奨されるべきものと思いますが、現代のように、流通、情報網が発達してくると、地域から地球全体に視野を向けてゆくことも必要と思います。食品添加物の利益と危険性といったことも考えなければならない問題です。オーガニック素材などの自然食志向も、現代ではむしろ贅沢な食事とも言えます。
日本は、世界中の色々な食物が手に入る国であり、また医療や健康を守るシステムでは非常に恵まれた国です。にもかかわらず、いや、それであるがゆえに情報が混乱し、病気になって慌てて「健康に良い食事」を求めて右往左往する事態になっています。
世界の食糧事情にも一度目を向けてください。経済的な力に物を言わせたグルメ、その結果として生じる生活習慣病を手軽に治すために、サプリメントや健康食品にばかり目がいくこと、己ひとりの食欲と健康のために、貴重な食材を買い漁ることは、地球的視野で見れば、とても「望ましい食生活」とは言えないと思います。

究極の「おいしく食べる」コツは、実はどんなものであっても「感謝していただく」ことです。食事を摂ろうとしても摂ることのできない人もいます。
話は少し違いますが、今、食事が自力で摂れなくなったお年寄りに、胃ろうを作ってまで延命させるべきかどうかといった問題も起こってきています。そういう食生活を是とするか非とするか……。
食生活とは、曖昧で、個人的なものです。唯一の正しい方法などはなく、色々な考え方、価値観があることを理解することがホリスティックな視点です。そういう意味で、今一度「望ましい食生活」を考えてみることは、ホリスティックな視野を持つために役立つと思います。

『ホリスティックマガジン2015 特集:食べること、生きること』より